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サボ、行先標の歴史

鉄道部品

人気の鉄道アイテムに「サボ」があります。最近はLED表示や方向幕が主流となり、めっきり見ることも少なくなりました。かつては大きな駅に行けば、ホームの片隅にサボ置場があり、さまざまな行先のサボを見ることができました。なかには日ごろ、目にすることがないものもあり、大いにマニア心がくすぐられたものでした。

鉄道愛好家にはお馴染みの「サボ」。略号であることは広く知られています。では、何という言葉を省略したのかを知っている方はあまりいないのではないでしょうか。昔は現在のように多様な通信手段はありませんでした。今ならメールやFAXで一斉送信するところですが、可能になったのはここ30年くらいのことです。古くは電報や鉄道電話などが主な通信手段でした。なかでも特に電報が多用されていました。電報というのは基本カタカナで送受信します。長文になると非常に読みづらくなるため、文面を分かりやすく、文字数を減らすための工夫としてさまざま略号が考案されました。電報のためにつくられた略号は電報略号や電略とよばれ、その種類は駅名や操車場をはじめ職務名や運転用語まで幅広くつくられました。現在でも多くの略号が現場で使われています。「サボ」もそのひとつで、しっかり生き残った鉄道用語なのです。

「サボ」は一般的には、サインボードの略称とされていますが、客車の側面に付けるものだからサイドボードの略称という説もあります。いずれにせよ縮めれば「サボ」なので、どちらが正解かは定かではありません。

「サボ」は国鉄だけでは私鉄でも広く使用されました。私鉄の「サボ」も鉄道会社により多くのバリエーションがあり、それぞれに魅力があふれるものが数多くあります。しかし今回は紙幅の関係上、国鉄の「サボ」につて解説していきたいと思います。

今の若い人には理解できないかもしれませんが、国鉄というのは分割民営化によりJRが発足するまで、日本全国の津々浦々、列車を運行するだけの鉄道運行組織にとどまらず、それらを支える巨大な行政組織でした。全国の鉄道を安全に円滑な運営するためさまざま規則、規程を制定し、それに基づいて統一的に運用、運行を行っていました。「サボ」に関しても、種類、サイズ、材質、記載される内容、字体(フォント)が時代によりこと細かく規定されていました。

国鉄では行先を掲示する一般的な「サボ」は、正式には行先標と呼ばれました。この行先標がいつのどの列車から使われ出したのかについては記録や資料も見当たらず定かではありませんが、残されている各地の写真などから、遅くとも明治30年ごろには一般的に使用されていたと考えられます。

明治39年(1906年)鉄道国有法が施行され、全国の主要鉄道が国有化されました。これを受けて翌明治40年6月8日「客車終着駅名札掲示手続」が示され、行先標の様式を「赤地に白文字」、「白地に赤文字」と定めました。

大正2年(1913年)1月27日の通達では行先標のサイズについて規定されました。規定されたサイズは、横2尺、縦5寸4分の3、厚さ八分の7寸としていますから、メートル法で換算するとおよそ60.5cm×17.5cm×2.5cmということになります。現行の行先標のサイズが60cm×15cmということなので、この通達が現行の行先標の大きさの礎になっていることがうかがえます。

大正8年1月21日の通達は、行先標の記載内容と方法、材質について統一が図られました。「群青地に白文字」、鉄製琺瑯加工又は木製ということが定められました。記載内容についても、「横書きは右始まり、楷書体手書き文字、下部に改修ヘボン式のローマ字表記」と規定されました。

客車側面に掲示されたサボの代名詞的な「群青色のサボ」は、ここではじめて登場します。以後、客車列車が減少する昭和50年代まで、もっともスタンダートな行先標の形式になります。

昭和2年4月7日、鉄道掲示例規が制定されました。行先標だけはなく鉄道関係の掲示に関する大きな改正が行われました。またこの例規は以降の規定の原型となり、国鉄の終焉まで続き、民営化後も影響を及ぼしています。実はこの例規には横書きの記載方向に変更がありました。左始まりに改められたのです。戦前の行先標は右から読むものと考えがちですが、例規に沿って制作された行先標は左から書かれたことになります。しかし、同年7月2日の通達で、平仮名の採用とともに右始まりに戻されました。わずか3か月弱の期間に多くの行先標がつくられたとは考えづらく、実際につくられたのかどうかはわかりませんが、戦前に左始まりの行先標がつくられていたかもしれないという事実は興味深いものです。

昭和13年3月8日の通達ではローマ字の表記法が改修ヘボン式から訓令式に変更されました。戦時色が一層強くなり、昭和15年頃にはローマ字表記そのものがなくなっていきました。その後、昭和17年3月30日鉄道掲示規程が制定されていますが、戦時中で鉄道の運行だけで精一杯の時代、行先標にどのような影響があったかはよくわかりません。ただ、物資が不足する中、不要不急の新しい行先標を作ることはではなかったことは想像に難くありません。

昭和20年8月15日終戦により、GHQによる占領がはじまりました。GHQは国鉄をはじめとする主要鉄道会社に対して様々な指令を出しました。これを受け、国鉄は昭和21年4月1日に通達を出します。行先標に関しても大きな変更がありました。戦前、横書きは右始まりでしたが、この通達により横書き「左始まり」が定められました。つまり、この通達より後につくられた横書きの掲示物は行先標にとどまらず、すべて左始まりになりました。そしてGHQの進駐により外国人の列車利用者が増えることになるため、行先標にはローマ字の併記が定められました。新たなローマ字の併記法は、修正ヘボン式、なるべく大文字で表記する。フォントはゴシック体にすることも決められました。白帯をまいた進駐軍専用列車も走りはじめ、専用の行先標なども取り決められました。

行先標のほとんどは行先の駅の名前が書かれていますので、大方は漢字の表記です。昭和22年7月26日に出された通達では、使用される漢字を「当用漢字表」にある字としました。画数の多い字などはこの時、簡易字体に改められています。現在「広島」はこのように表記されます。県名でも市名でも広島です。しかし、この通達以前は「廣島」と表記されていました。この通達では平仮名表記も「現代仮名遣い」へ変更されています。行先標ではあまり関係ありませんが、駅名標などでは大きな変更になりました。

昭和29年12月1日、以後の行先標に大きな変化をもたらす通達が出されます。行先標の文字表記の筆文字楷書体がゴシック体へ変更されたのです。一部には丸ゴシックも用いられたようです。この通達以降、筆文字楷書体の行先標はつくられることはなくなりました。しかし、国鉄末期の昭和60年代にも少数の筆文字楷書体の行先標が残っていたとのお話もありますが、作成されたのは昭和29年以前だったのでしょうか。ホーロー加工された鉄製の行先標の耐久性の高さもうかがい知ることができるエピソードともいえます。

昭和35年3月30日、フォントに大きな影響を及ぼす通達が出されます。ゴシック体に代り国鉄文字とも称される「すみ丸ゴシック体」が採用されます。さらに昭和42年12月10日の通達では行先標の色が群青色だけではなく、白やクリーム色、黒地など様々なバリエーションが増え、色鮮やかになっていきました。ちなみに、新幹線の登場は昭和39年10月です。新幹線の当初はサボを掲げていました。車体の横にはサボ受けがあり、行先標が差してありました。60cm×15cmの一般的な大きさではなく、20.5cm×32.5cmというサイズでした。新幹線の行先標は、東京駅や新大阪駅では差し替える風景が見られたそうです。今では信じられない光景です。新幹線の行先標は盗難が多く、何より高速走行する列車より脱落する危険があったため、早々に使用は中止され、方向幕による案内へと変更されました。

昭和48年9月29日の通達では、行先標に列車名や種別を書き込むタイプのものが登場します。方向幕ではお馴染みの様式です。また、色にもさらにバリエーションが増えています。また、昭和50年代に入ると材質も多様になり、プラスティック製やアクリル製のものも導入されています。関西の153系新快速の行先標は濃い水色地に白文字、矢印は赤色となっていたように、カラーリングも多様になっていきました。

その後も分割民営化までの間、規定もこまめに変更されましたが、行先標の様式や表記に大きな変化はありませんでした。昭和62年4月1日分割民営化により国鉄は消えてしまいましたが、国鉄の資産を継承したJRは各地の実情に合わせて様々なものが製作利用されましたが、方向幕やLEDの発展により、行先標そのものが減少しています。

行先標の変遷を簡単にまとめてみましたが、列車の行先をお客さんに案内するという、何の変哲もない行先標ですが、時代の変化とともに大きく変わっていることが分かっていただけたと思います。しかし、方向幕ですらLEDの発達で減りつつある時代、行先標の終焉も近いかもしれません。

ところで今回、サボの中でも国鉄の行先標を中心に解説しました。しかし、国鉄には行先標以外のサボも多数存在します。ブルートレインの先頭機関車を彩った愛称標、長く中央線の特別快速に掲げられた種別標など。これらも全て、行先標と同じ規則や規程、通達で決められていました。興味がある方は、一度目を通して見られてはいかがでしょうか。新しい発見があるかもしれません。

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